呼吸を磨いて、格好つけて

ヨガ

ヨガやアシュタンガヨガで怪我や身体を痛めたりするときは、ポーズにこだわりすぎてしまったときでもある。

格好をつけたくなるのが人間の性というもので、ヨガでもポーズを格好良くとろうとして頑張り過ぎてしまう。

けれど、痛めることは悪いことではない。痛みは身体のメッセージだ。そこから学びとり学習をしていけばいい。

「痛い」と一言で括ってもその中身は多様な意味があり、感覚レベルで表現すれば痛みとして起きている現象全てが違うことで同じことは起こってはいない。

ただ、それを自分でその現象を知覚しようとして言葉を用いてしまうと、その現象の要素の大部分を切り落とす作用が自動的に働いてしまう。言葉に頼ることでその感覚はありのままのものではなくなってしまう。

それを他者に伝えようとするものならば尚更で、自分と他者、これまで積み重ねてきて背景が違うために、その「痛い」という言葉が他者にそっくりそのまま伝わるというのは難しい。

聴き手側が似たようなことを実感したことがあるか、共感力を司るとされる脳の前頭葉の部位が活発に働いているか、想像力をフル活動をしているかなどの、受け取るためのドアが開いてなければ伝わることは不可能だ。

つまり、「痛み」というのは、他者には伝わりづらい至極、主観的で個人的なものということになる。

筋肉が伸びる感覚による痛気持ちいだって一応は「痛い」だ。それが頑張り過ぎてしまい極端に伸び切ってしまえばオーバーストレッチとなり、筋繊維を過剰に断裂してしまう。そのレベルでの「痛い」は良いものではない。

ポーズの格好に囚われ過ぎて、ポーズをとることを優先し過ぎてしまうと、その「痛い」と訴えてる身体の声を感じることを疎かにしてしまう。そういうときはたいてい呼吸のことは忘れてしまう。

長く、ヨガのポーズに取り組んでいくためには、その時の塩梅を見極めることが大切になってくる。

そのためには、呼吸がヨガをする際のセンサーとなる。

呼吸というセンサーを磨いていくためには、経験や感覚、直感力などが必要となってくる。知識や情報も大切だが、それよりもそれをトライしてエラーしてフィードバックをしてきた量の方が圧倒的に大切な要素となってくる。

呼吸の理解は量を積み重ねてきたあとに起こる。はず。

自分にとってしんどいポーズの練習をしたときは呼吸が不安定になる。

しかし、呼吸が不安定になるポーズに取り組むことは、肉体的にも精神的にもきつい良い鍛錬になる。

ヨガ哲学である八支則の、アヒムサ(非暴力)やサントーシャ(知足)にも繋がるし、サティヤ(正直)と向かい合うことができる。

呼吸がある程度深まらないと、ヨガのポーズを格好よくとることは無理だし、危険だ。

けれども、呼吸はガムシャラにお腹を凹ませたり膨らませたりして吸って吐いてを繰り返せばいいというものでもない。

呼吸とは、ある意味バランスを量る指針なようなものだ。

深い呼吸をすることで意識や思考、感覚が深くなる。

深くなったそれらの要素がバンダの感覚や腹圧をかけるといった感覚を深くする。

そして、深まったバンダや腹圧によってさらに深く呼吸することができる。

というサイクルが生まれる。

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