アシュタンガヨガの実践をしていると、その動きが当たり前となる。
それが当たり前の動きとなってしまうというのは、何のジャンルでもそうだと思うが、その動きに特化した身体となるということだ。
以前、近所にある街中華屋さんの職人さんに中華鍋を振ることに特化した身体つきになっている人が働いていた。
左の肩甲骨周り、左の僧帽筋や三角筋が異様に発達してしまっていた。
かなりの猫背で、左肩だけがエヴァンゲリオンのような肩甲骨周りに盛り上がっているという表現が似つかわしい人だった。その方が働いていた頃の店の味はとても美味しかったの記憶している。
その道に通ずることを専念して行動していればそれが特化したことになるわけだが、果たしてそれが本当にバランスが取れている身体なのか?あるいは健康的な身体なのか?何か他のジャンルに応用が効かせることができる身体となっているのか?というとそれはまた別な話になる。
特化してしまった身体は普通ではなくなっていると見なすこともできる。
よく言えば、専門的な身体とも言い換えることができる。
しかし、基本や土台を欠いてしまったらその専門的な部分は弊害にもなり得る。
アシュタンガヨガをやり過ぎて起こる弊害で代表的なものは「止めることができない身体になりやすくなる」ということだと個人的な経験では思っている。
身体が柔軟になり過ぎてしまって、運動系の動きで、「止める」ことが出来なくなってしまうのはもちろんのこと、
ヨガのポーズのような静止系の動きの中でも「止める」ことが出来なくなってしまう。
そうなってしまうと新しい物事に取り組んだ時に、その取り組んだことに関しての要素を経験したことがないと、ある一定のレベルにまで達するのに時間がかかってしまう。
ある意味、「アシュタンガヨガの理解」でその事を捉えようとする思考が働いてしまい、新しいことを学習するの邪魔してしまうのが一番の要因かもしれないが…
自分の経験や理解、意見が優先してしまい、その事をそのままに捉えることが出来なくなってしまう。
それを差し引いても身体が柔らかくなり過ぎてしまって「止める」が出来なくなってしまうことで習得に時間がかかる。
身体は柔らかければいいわけではない。柔らかいだけの身体に安定はない。
「止める」があってこそ安定が生まれ、柔らかい身体となり、柔かい動きとなる。
では「止める」とは何か?
止めなくてはならない部位の筋肉を収縮することができる。
今のところ、言葉にするとそうとしか言いようがない。
筋肉を収縮するという現象も練度があり、その感覚にはかなりの個人差がある。
「筋肉を収縮する」ということから生じる自分のその感覚が、隣の人のその感覚と同じだと思わない方がいい。
「止める」ことの探求には終わりはない。
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