身体を壊したり、病気をしたりすると考える。
人間の身体は複雑性を保つことが大切なのではないか?それが健康というものではないだろうか?と。
複雑性とは具体的かつ現実的な問題で直面する「できない」、「わからない」、「難しい」から逃げないで常に向かい合っていることだと思う。
訳がわからないし、理解できないが、それでもやり続ける。そんな状態は悩み、踠き、足掻いていると言える。決して単調ではない。挑戦している状況が常にある。
アシュタンガヨガのプライマリーシリーズも最初は大変だ。
それこそ挑戦の連続だ。悩み、足掻き、踠き続ける。
しかし、続けているとポーズも一応は取れてくるし、身体も強くなり、プライマリーシリーズに慣れてくる。
そうなってくると、身体はアシュタンガヨガ仕様のものへと変化していき、アシュタンガヨガの癖や習慣というものが身に付いてくる。
ネガティヴな点を述べると、大体は、留めることができない身体、筋肉が伸びきってしまって収縮することが苦手な身体、緩み過ぎて緊張することへの対応が苦手な身体…といった感じのものになってくる。
アシュタンガヨガならアシュタンガヨガの身体を使い方というものがある。筋肉の質や身体の疲労する箇所というのはアシュタンギーの身体を触ると大体は似通っている。
そのため、何か別のことに応用することが苦手な身体へとなっていく傾向がある。良くも悪くもアシュタンガヨガで培った感覚が物差しとなってしまう。
ただ、アシュタンガヨガは与えられている最後のポーズは挑戦のポーズだから常に挑戦がある。
しかし、その挑戦を挑戦として捉えるには自分を見つめるということが必要不可欠だと思っている。自分が今していることに興味を持ち、問い掛けを持つということだ。
ヨガとは自分を知ること。自己探究の道だ。自己探究の道に答えはないし、終わりもない。
ポーズの挑戦とは自分を知るためのものでなくてはならない。
ポーズの挑戦に自分を知るための要素が含まれていなければそれは違うものだと言えるだろう
そのようなアシュタンガヨガの取り組み方は複雑性の維持は難しく、単調性をともなった惰性となってしまう。
常に挑戦、常に自分を知ろうとし、自分と向かい合う。
それがアシュタンガヨガでの複雑性の維持ができるのではないだろうか。
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