不条理と理不尽を与えてくれる優しい偉大な先生

ヨガ

ラクシュミーシャ先生のZoomチャンティング、定員一杯で入れないやん。

今朝、久々に、一月くらいぶりのカランダヴァーサナをやってみた。

肘立ちの倒立からそのままパドマーサナ(蓮華座)を組んで、それを蓮華坐を組んだままの両脚を両脇辺りまで下ろして、5呼吸をキープする。

それから、再び、蓮華坐を組んだままの両脚を持ち上げて倒立に至った瞬間に、

「そっか、自分の全身全霊を見つめてくれていた人はもうこの世にはいないんだな」

という実感が一気に噴き上がり、湧いてきた。

一カ月ほど前に何気ない動作から右肩を痛めてしまって、整形外科に行きレントゲンを撮って見てもらったところ肩鎖関節炎と診断された。「またテキトーな診断だな」と思いつつもそんなもんだし仕方がない。感覚的には肩鎖関節の靭帯のどっかの捻挫だと思う。なかなか治らないようでちょっとは良くなっている気もしなくはない。

kizuki代表の榎坂に診てもらったところ「左に比べると、右の肩甲骨周りの使い方の感覚がバグってきてるよね」と言われた。そう言われてみると思い当たる節はある。

胸椎の進展側の可動域が増えた感覚があったので、その感覚に肩甲骨の動きが追いついていない。という感覚だ。

ダウンドックをした時に肩甲骨周りの違和感が続いていた。

日々の癖の積み重ねが、些細な何気ない動作でも肩を痛めてしまうということに繋がる。

柔軟性を増すという良さげなことも、ある意味、全体のバランスが崩れるということになるのだろう。

焦っても仕方がない。そのうち治る。はず。

チャトランガ(腕立て伏せ)のように肘を曲げたりすると右肩に痛みが出るので、なるべく肘を曲げたりする動作のときには負担がかからないようにして膝をついてやっている。肘を伸ばしてでのジャンプバックは痛みなくできる。

痛みが起こらない範囲で、痛みと対話しながら、やれることをやればいい。

その繰り返しだ。

そんなこんなで、今朝は久々にカランダヴァでもやってみるかと思い立ち、やってみた。

やった時に痛みはなかった。

シャラジは…シャラート先生は偉大なconducterだ。マエストロだ。

偉大なconducterはヨガっぽいことをあまり言わない。

“No pain no gain.”をはじめ、

言われたことは、記憶してるだけで、”Be crazy.”、”Go crazy.”、”I give you suffering more.”などなど。

あとは、あまりはっきりと聞き取れなかったが”オレは常にsufferと共に動いてる(働いてる)。だからお前にもsufferを与える”なんてことも言われたりもしたが、これを言われた次の日は優しかった。言いすぎたと思い気にかけてくれたのだろう。

カンファレンスでもそうだ。

なるべく自身の言葉で、自身の経験と感覚と直感から、血と肉と骨から滲み出た言葉で、集まる生徒たちに語りかける。

そんなところが好きだ。

偉大なconducterは特にこれといって教えてくれたりはしない。

まれにしてくれる。

先生と向かい立つと、

「お前自身の気持ちを強くしろ。そうしないとオレはお前に教えることはできない」

と言いたげな雰囲気とともに、その澄んだ透明な眼差しを浴びせてくる。

先生はその存在でシャラ内のエネルギーを統一する。

世界中から集まったプラクティショナー達の自我をconductしてまとめて、調節する。そして、場の集中力を高める。

その場の集中力によって感化されたプラクティショナー達の高まりがさらなる場の集中力のうねりをもたらし、場に集中力のハーモニーが生まれる。

そんなところが好きだ。

以前、東京のシャラに通っていた頃は「先生は立って見てるだけで楽そうでいいな。こっちはこの後働かなきゃいけないのにな」なんて考えてたりもした(Kランティ先生、すみません)。

しかし、いざ自分が教える立場になってみると外から見ているのと実際にやるのとでは大違いだ。

かなり疲れる。

マイソールクラスを2,3時間やるだけでもかなり疲れるのに、

シャラジはマイソールでは300人強の生徒の意志と意識、そして想いを浴びながらの8時間労働だ。

尋常ではない精神力と体力だ。

前シーズンの最後の土曜日のレッドクラスでは何回かカウントを間違えて、クラス終了後には満足感とフッと何かが抜けたような疲労感を漂わせながら”Especially nothing to say.”と言い、まわりの笑いを誘った。

そして月曜日には「まだ3日プラクティスがあるんだぞ!気を抜くな!」と檄を全員に送ったが「自分ももう終わった感出して、気抜けてたじゃん!」とツッコミを入れたくなった人は何人かはいたはず。

でも、先生はそれだけアシュタンガヨガに生命を捧げ、情熱と共にdedicationしていた。

dedicationは先生がよく使う言葉だ。

前シーズンの最後の日に”Thank you.”と声を掛けられたことが先生の声を聞いた最後となってしまった。

今シーズンもまた会えることが当たり前だと思っていた。

あなたが生み出す場のエネルギーと臨場感の中で、あなたの声が響く空間の中で、もう練習できないことが、今はとても寂しい。

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