アンチ・サントーシャ②

ヨガ

そもそもヨガスートラなどのヨガ哲学の本を読んでいると、いきなり答えだ。

段階や過程がない。

だから、わからなくなる。

これがわかると言う人は、

感性や感覚が研ぎ澄まされている人、

1をもって10を知ることができる抽象的思考能力が高い人、

人間関係の中を足掻いてきた人生経験豊かな人、

記憶力は高いが情報と知識の羅列と蓄積だけになってしまい、言葉の背景を考えることをしない人、

あとは雑な人か、見栄っ張りな人、良くも悪くも大雑把な性格の人あたりではないだろうか。

答えにいたる…わかるに至るまでは、わからないという過程を踏まえないと、そもそもわかるに至るわけがない。

できるもいっしょだ。

何かができるという現象が起こるまでは、できないという過程をしっかりと踏まないとその現象が起こるはずはない。

その過程をしっかりと至らないと、できてるつもり、わかってるつもりの…つもりの妄想の世界にいるだけで、おそらく現象としての「できる」や「わかる」に至ることは難しい。…僕はそこには至ってないので「おそらく」を使う。

その世界から抜け出すためにも、やはり「適切な比較とは何か?」を自問して、他者と自分を比較していかないとわからない。

哲学は抽象的なものだ。そもそも、その哲学を構成している言葉という代物が抽象性の塊でしかない。

私とあなたが話す言葉一つ一つが、奥にある背景とその深さは全く異なる可能性がある。というか、間違いなく一人一人違う。

哲学に関わったとしても、わかるということが情報や言葉を知識として蓄えることで、ただ単に知るにとどまり、実際にその背景にある意味や様々な解釈に向き合おうとしない。

それだと思考を働かすことがないので、自分自身を知るというための哲学本来の学びまで至れない。

哲学は自分自身の内側に言葉やその概念を刺していくことで確かめる鋭利な刃物のようなもの。

言葉にしても何にしても、自分の中の深い内側にそれらが刺さっているから、それらが自分の言葉や自分のものとしての表現となる。刺すことを、刺されることを拒絶して薄い部分の解釈や理解にとどまってしまっては何の意味もない。

結局は、気合いと根性、素直さが大切ということになるのだろう。

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