アンチ・サントーシャ①

ヨガ

サントーシャとは、分相応のところでいまの自分に満足をすること。

人によっては、他者と自分を比較して優劣をつけないなどと解釈している。

物事を比較し、その結界に不満足を覚えてしまうから比較をしてはいけないということなのだろうか?

個人的にそんな解釈の仕方には違和感しかない。

サントーシャとは、何事が起ころうとも「全てをよし」とできるメンタルと思考の柔軟さとしなやかさを身につけていくことの教えであって比較することを否定することではないだろう。

優劣つけて比較しなきゃ何事も成長したり上達したりすることは起こりえない。

よく言われている…他者と比較するのではなく、昨日の自分、過去の自分と比較するのも大切なことだとは思ってはいるが、他者と自分を比較することでしかわからないことがある。

あの人と比べるといまの自分がどれだけの社会的立場なのか?とか、

あの人はなんであんなにカッコいいのか?とか、

あの人は何故あんなにも仕事ができるのか?とか、

あの人と比べて自分が行っていることの技量はどれほどなのか?とか、

あの人のサプター・ジャンプ、エーカーダシャーチャトヴァリー・ジャンプバックが肩や腕の力感が無く浮遊しているように見えるのはなんでなのか?とか、

成長や上達するためには比較しなければわからないことの方が多い。

逆に、適切に他者と自分を比較する能力が足りてないと人間関係での問題の原因になる。

というか、「適切な比較とは何か?」を自問したことがないから比較した結果に一喜一憂して、比較することはよくないと言っているだけではないか?

いずれにしろ、比較する能力が足りないと、

無自覚に相手に対して失礼な対応をしてしまったり、自分が礼儀を欠いた行いをしていることに気づけないことにつながる。

ちなみに、僕は以前、目の前にいる人たちが社会的に大変立派なことをしている人たちだと気づかずに礼儀を欠いてしまい、それを見ていたある方にめちゃくちゃ怒られたことがある。

具体的に何が悪いと注意されたわけではない。ただその方に全力で、真剣に、面と向かって怒られた。

その時の出来事は自分にとって大切な財産になっている。

礼儀を定義することは困難だ。場によって、相手によって変化する。経験も必要となる。

けれども、礼儀の必要不可欠な要素はある。

それはしっかりと目の前の人と向かい合い、想いを伝え、想いをしっかりと聞くことだ。

同時に目の前の人と真剣に向かい合うという局面は、自分自身とも真剣に向かい合っていることになる。

それが出来ない人は、おそらくサントーシャを「他者と自分を比較しない、優劣をつけない」という訳がわからない幼稚な解釈をして、自分に都合の良い妄想に浸り続けていることに気がつかないで、自分の中に閉じこもったままでいるのだろう。

時には伝えなきゃいけないことをしっかりと伝えることが必要となる局面が起こる。そのような状況ではお互いが真剣に正面から向かい合わなければならない。肚が座らないと人と真剣に向き合うことはできない。それがその時の礼儀だ。

人の真剣に対して真剣な姿で向かい合うという礼儀。

そういった礼儀を知るためにも比較することをしなければ自分の姿が見えてこない。

比較することは社会生活を営んでいくためには磨いていかなければならないセンスだ。

サントーシャを自分なりに解釈して定義付けするなら、

サントーシャとは、

他者と自分を比較しまくることで起こる不満足を大切にして、一喜一憂にとらわれ過ぎないで、いまの自分の現状を分相応のところで満足することもしないで、いまの自分の人間関係や環境や生活に感謝すること。

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