アシュタンガヨガには重要な要素である「トリスターナ」と呼ばれる、呼吸、ドリスティ(視点の固定)、そしてポーズの3つがある。
個人的な感覚としては、ドリスティは単なる視線の位置ではなく、「意識の方向性」や「質」を表しているように感じる。「意識」、もしくは「意志」という言葉の方がしっくりくる(「意志」は凝縮された意識であり、意識をより濃くしたものだ)。
意識するということは対象があるということになる。
対象なくして意識する(集中する)というのはサマーディーの中でも最奥にあるとされるアサンプラジャニャータ・サマーディー(無想三昧)の状態に突入しているということになる。
それは瞑想(集中)の対象がなくなり、純粋な意識そのもの(プルシャ)になっているということだが、そんなわけのわからんことは今回は置いといてトリスターナの話に戻ると…
ポーズについては単なる身体的な運動というよりは、その根底にあるエネルギー制御の基盤であるバンダ(骨盤底筋群ら辺の締め付けと繊細な感覚)を指していると個人的には捉えている。
「呼吸」の練度が高まるにつれて、「意識」はより活性化される。
そして、その活性化されて明確化された「意識」によって「バンダ」をより深く、繊細に感じ取ることができるようになる。
さらに、磨かれた「バンダ」は「呼吸」を深化させて、深まった「呼吸」に同調するように、「意識」もまた深さへと向かう。
これは相互に影響し合う循環的な繋がりが生まれていると言えるだろう。
さて、ここで呼吸とバンダは一旦ほっとくとして、「意識とは何か?」という問いについて展開していきたい。
日常会話において、「意識」は「思考すること」と同義として捉えられているように感じる。
「思考する」という能力はそもそも大脳新皮質が発達したホモ・サピエンス固有の特殊能力であり、それによって現代人は「無いものを存るもの」として概念化することができ、共有することが可能となる。
神、宗教、法律、金、数学、金融といった抽象的な概念を創り出しシステムとして構築できるのはこの思考という特殊能力によるものだ。
しかし、アシュタンガヨガにおける意識は思考を極力排して、「感覚すること」や「感じること」に近い。
それはアシュタンガヨガに限らず、感覚を磨くことを必要とした職務を担う熟練した職人さんたちの間では、むしろ思考や概念が行動や感覚、知覚することの妨げになると感じている人も多いように思う。
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17世紀のヨーロッパの哲学者ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉がある。
彼以後の哲学者や思想家たちに強い影響を与えた言葉だ。
しかし、僕は彼が本当にそのように考えていたのか疑問に思っている。
以前、読んだ彼の生涯に関する本によれば、デカルトは学生時代を終えたあとは、書斎に閉じこもって机に向かうだけの書物を捨てて、軍務に就き、ヨーロッパ各地を旅して、世間を書物と見なして研究を続けてきたとされている。
生涯の中では、書斎に籠り内向的に思索にふける時期もあれば、他の知識人や市井の人々や王族との外交的な交流もあったようだ。
軍務の期間には、彼は大砲の弾道の軌跡を解析するための研究に没頭して、平面や空間における物体の位置を数学的に表現するデカルト座標を考案したり、
図形を表す幾何学を代数学に置き換えることを可能にした代数方程式を考案して数学の発展の一躍を担った。
他にも彼の代表作である『方法序説』の中では光の屈折についての研究も書かれており、レンズの開発や虹の仕組みについても研究したり、解剖学などの研究もしていたらしい。
彼は感覚的な経験は誤りを生むと考えて数学的な確実性を大切にする「理性中心主義」として理性を知識の根源として置いて研究に没頭していたようだ。
また意識や思考といった精神現象を身体と区別する「心身二元論」を提唱して西洋思想や後々の心理学に影響を与えたのも彼の功績だったはずだ。
デカルトの研究の幅広さを考えると、その感性の鋭さと好奇心の強さ、対象を感じとる観察眼の鋭さと解析する思考力というものに驚嘆する。
解析するという思考をするには、対象を認識する、対象を感じとるということを明確にしていく作業が必要となってくる。
対象を明確に感じる。
それは対象に具体的に気が付いていくことでもある。
憶測だが、デカルトの正確を求める理性の根源に在るものは「感じる」ことでだったのではないだろうか。
彼の思考の根源には、対象を誠実且つ丁寧に感じとろうとする凝縮された感覚が…集中力があったはずだ。
デカルトにとって、本質的だったのは抽象的な思考よりもむしろ具体的な現象を通して「感じる」ことを、つまり「我感じる、ゆえに我あり」だったのではないかとさえ想像してしまう。
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「意識とは何か?」というのは、
「対象を感じることで、対象を明確にしていき、対象に具体的に気が付いていく」ということになる。



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