「頭ではわかっていないけれど、身体ではできる」
今日では逆説のように響くこの在り方は、近代以前の人間にとってはむしろ自然なものであったに違いない。
農作業に励む農民、工芸を極める職人、武芸に身を投じる修行者…彼らは理論や言葉ではなく反復を通して身体に刻まれた知を基盤としていたはずだ。
昔の日本人にとっての理解とは、単に頭で納得することではなく、身体が自然と調和し、一体となることにほかならなかったはずだ。
しかし、明治維新以降の西洋的な近代教育が導入されると、学びの中心は言語と理性による知識へと移行した。
教育は「理解できること」を前提とし、身体を通した学びは「非効率」と見なされていった。
さらに戦後の高度経済成長期には産業社会がマニュアルとその合理化を徹底し、熟練の指さばきや体捌きといった身体知は次第に価値を失っていった。
その結果、人々は「頭ではわかっているのに身体ではできない」という奇妙な…しかし現代では常態化した感覚が、さらに当たり前となるまでに慣らされてしまったのではないだろうか。
こうして今日では社会は言語化と合理化の波に飲み込まれてしまっているわけだが、ヨガの持つその哲学性はその潮流へのアンチテーゼとして世の中に緩やかながらも流れている。
アーサナの実践においては身体を入口とするが、その本質は身体にとどまらない。身体を通して精神と魂(関係性)を自然へ還していく道である。
日々の反復のなかで微細且つ多様な気づきが訪れ、それを頭が後から理解しようとする。
このプロセスはかつての職人文化や茶道、剣術といった日本の芸事や武道とも響き合うものであろう。
現代の多くの人たちは「理解しなければできない」と思いがちだ。
しかし、本来は逆である。
「頭ではわかっていないけれど、身体ではできる」ということに気がつくこと…
いや、むしろ「理解していなくとも、身体はすでに知っている」ということに気づくことだ。
ヨガはその身体知を掘り起こし、頭に偏った近代的な知を再統合していく実践でもある。
いま現代人に求められるのは、「頭で納得すること」ではなく、「すでに身体が知っていること」に…身体の声に耳を澄ますことがまずは必要ではないだろうか。


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