「普通でええねん」

ヨガ

“人は普通を学べばいいはずなのに、極端を学ぼうとしてしまう”

先日のチャンティングのクラスでラクシュミーシャ先生がそんなことをおっしゃっていた。

けれども、「極端」という領域には人を魅了するものがある。

“人として生まれたからには何かになりたい…何かを成し遂げたい”

“生まれてしまったからただ生きるだけには耐えられない”

“人とは違う自分でありたい”

「極端」の領域には本当の自分自身という個性が潜んでいるような気もしなくはない。

だからこそ、その領域に憧れ、向かってみたくなるのは人のサガではないだろうか。

しかし、「極端」に魅了されてその領域に向かおうとすることも…「普通」とは何かを求めようとする心の働きも、結局はその時々の好奇心が赴いてしまう矛先次第なのだから同一直線上の同じもの、もしく異なった視点から観た同一のものに過ぎないのではないかとも思ってしまう。

日本で日野先生のお会いするとよく言われることがある。

”お前、普通の時が一番ええで。”

”普通でええねん。普通になれ。”

けれど、日野先生にそう言われると「普通」という言葉が「特別」なものとして自分の中に写ってしまう。

素直にその「普通」という言葉をただ受け取ればいいだけなのだろうが、

捻くれて、複雑化して、無駄なことを余計に考えて、分析して解析してしまう自分自身がその「普通」という言葉をその本来の意味から遠ざけてしまうということもあるからだと思うが、

先生の佇まい、一挙手一投足、洗練された身体操作と技、何よりも対峙して向かい合った時のその朧げ且つ澄み切った眼差しと真剣そのものと言っても過言ではない存在の深さを体感してしまっているからでもある。

そんな人がおっしゃる「普通」という言葉は一般的なものとはかけ離れたとても深いものだと受け止ってしまう。

しかし、先生のおっしゃる「普通」は僕にとっては「特別」だとは感じてはしまうが「極端」ではない。

”極端ではないが、深度が深く、濃度が濃く、そして練度の高い「普通」”と表現するのが適切な言葉ではないだろうか。

言葉にすることで、分解したり解析してるっぽくってなってしまい、「普通」という言葉の意味を、やはり、ややこしくしてしまっている気もするが…

察するに、先生が言う「普通」とは”めっちゃ人間としての濃さがある人間”がシンプルな表現ではないだろうかと思う。

一般的な世の中で使われている「普通」とは、実際には存在しない言葉だと思っているのであまり考えたことない。

一人の人を知れば知る程、「普通」という言葉はあり得る事のない…意味のない言葉なのだと感じてしまうからだ。

しかし、ヨガ哲学に書かれていることは「普通」という言葉で区分けできる分野ではないかと思うことはある。

プルシャやブラフマン、アートマンは誰もがすでに手にしているが、日々の乱雑さや飽和した情報に意識が向いてしまうがため気が付きにくいだけで、すでに皆が手にしている当たり前のもの。

当たり前すぎると、言語化することや理論知化することが難しくなる。あまりにも当たり前過ぎて…あまりにも近過ぎて気がつかない。

プルシャやブラフマン、アートマンという概念が示すものは「普通」なものであって、「特別」なものではないと個人的には思っている。

それらの言葉が指し示すことを「特別」とすることによって何か都合がよくなる人が、それらを「特別」視してそのように表現しているだけに過ぎないのではないか。

むしろ、それらを言葉として知らない人の方がそのことをより近接に体現していたりもする。

体現している人にとっては、『バガヴァット・ギーター』の2章46節の“いたる所で水が溢れている時、井戸は無用である。同様に、真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である”と書かれている通り、言葉としての、概念としてのそれらのものは不要となるに違いない。

アシュタンガヨガを実践していると、確かに「特別」という「極端」に向かって走ってしまう傾向が強くなる。

しかし、「極端」に向かわないと”「極端ではない」=「普通」”ということの意味もわからない。

かといって、そこまで「極端」に向かえる根性がないということも自覚している。

けれども、「極端」を見つめている時は、自分の実際からは遠くかけ離れてしまったところを見つめている時であるとも言える。

点に気が付かないままで線や面として捉えてしまっているとき。

登山で言えば、ヒマラヤの無酸素単独登頂や厳冬期の富士山の単独登頂を登山をろくにしたことがない人が試みるようなものだろう。

適切な準備や過程を伴わない行動は無謀とも極端とも見なせる。

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