アシュタンガヨガはよく出来たメソッドだと思う。
シークエンスを大切にしてポーズをとっていけば身体が整う流れができている。
それはやはりシークエンスの所々にあるコアポーズとしっかりと向き合っていることが前提となる。
その日その時の自分の身体の声を聴き、じっくりと向き合うことも大切だ。
最近、毎週マイソールクラスに参加してくれている生徒さんがカポタアーサナまでポーズが進んできた。
彼女の日ごろの努力の賜物だ。
僕もカポタアーサナは苦手なので、課題としているポーズだ。苦しさはとてもわかる。
よほどの股関節と胸椎の進展ができる身体と上方回旋ができる肩甲骨を持ってない限りはこのポーズはかなりしんどい。
けれども、アシュタンガヨガはセカンドシリーズの中盤でこのポーズがある。
カポタアサーナをする上での恵まれた身体を持たないと、かなりの苦行の期間となる。
心と精神の修練と言っても過言ではない。
先日、生徒さんから、
「このポーズの後もさらにいろいろポーズをしていかないといけないんですよね。体力がもたないです。きつい」
という声を聞けた。
そのことに気がついてもらえたことが嬉しかった。このポーズと向き合うことで、彼女自身が体力をつけるための食生活の改善の必要性に目を向けてくれたし、アシュタンガヨガ・ヴィンヤサ・システムの片鱗に触れて、アシュタンガヨガの全体性をわずかに実感してくれたからだ。
別の生徒さんも「なんでこれが最後のポーズじゃないの?」と文句を言いながらその時その時の全力で向き合ってくれている。
カポタアーサナを苦もなくできた人にとっても、エーカパーダ・シルシャーサナやその次のドゥイパーダ・シールシャーサナが苦手となる人が多い。
短期間で新体操の選手のような後屈系も外旋系もハンドスタンド系のポーズもできてしまう人もいるが、そういう人にとってのアシュタンガヨガは心の鍛錬に至っているようには見えない。そうなると部分的なアシュタンガヨガに触れているだけにしか見えてこない。その人がアシュタンガヨガの全体性や抽象性とは何か?ということを考えることはないだろうと思えてしまう。全体性や抽象性を考える機会が足りないとオフ・ザ・マットでの精神的部分が未熟になりやすい。
アシュタンガヨガ・ヴィンヤサ・システムは皆に限りなく平等に困難を与えてくれるよく出来た構造だなとつくづく思う。
マイソール総本山基準でのカポタアーサナをとらないまま、先のポーズを進んでいる人のアーサナを見る機会があるが、
そこの基準を超えて行ったことがないので、後のアーサナも弛れてしまう。
セカンドシリーズのコアポーズをどれもとれてないが、「フルセカンドをもらっている」、「サードシリーズを練習している」と言っている人の練習を見ることがあるが、身体の奥の強さが出来てないので、浅い動きになってしまっている。そうなると動きだけでなく、呼吸、意識などが浅くなる。
やっている当人が気持ちいいだけの単なる運動、エクササイズになっている。そうなるとアシュタンガヨガ本来が持っている全体性が欠如してしまう。
段階と過程を大切にして練習した方が絶対にいい。
できないことが常にある。そして、それに対して素直に向き合い取り組む。それが心身の健やかさを育むには必要なことではないだろうか。
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