『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』

ヨガ

修行の果てに獲得できる霊界を見渡せる霊眼や霊耳などは「本当かよ?」とすでに…というか初めてこの本を読んでから数年経った現在においても相も変わらずに疑ってしまう自分がいる。

チャクラ(…この本で言えば蓮華だが)の感覚についてもアシュタンガヨガを10年以上は継続してきているので自分なりの実感としてはあるが、チャクラが回転するという感覚はまだわからない。

アーサナのヨガや瞑想のヨガを長年実践する人がチャクラの体感覚を説明する時、あとは古武道を長年実践している人の中で臍下丹田、中丹田、上丹田を説明する際に、この本に書かれているようにその部位が回転するという言葉を用いて説明することがあるので、ある一定の段階までに到達すると回転し始めるのかなとは考えている。

だから、実践と実感が不十分なのでこの本に書かれていることを疑ってしまう。

しかし、人間の感覚器官はこの本にも書かれているように使わなければ退化して無くなっていってしまうことは確かだ。それは強く思う。

暗闇の中に居続けていれば視力は退化していく。網膜が光に反応して情報をキャッチしてビタミンAを放出し、そのビタミンAが視神経を通る伝達物質となって脳の視覚中枢まで情報を送るという一連の運動機能も衰退してしまう。聴力も一定の音波だけしか浴びてない状態ならば退化していく。

個人的体験では、小学生の時に算盤を習っていた時には目を瞑れば自然と算盤が目の前に浮かんできてきて5、6桁くらいまでの暗算なら可能だったが、算盤を全く行わなくなって2、30年経過した今となっては2桁の暗算も微妙である。

人間が生来的に持つ感覚器官も後天的に体得できる…僕の算盤のような体験や、この本に書かれているような超感覚である霊的器官を磨いていくことも使い続けて実践していかなければ発現することはない。

どれだけその問題や課題を自分の問題として抱え込んで意識することができるかということになる。

シュタイナーが『バガヴァット・ギーター』を解釈して説明した書である『バガヴァット・ギーターの眼に見えぬ基盤』ではギーターを理解するためには現在(シュタイナーが在命していた時代だから今から110年程前ということになる)とギーターが書かれた時代と社会背景の違いを念頭に置いていかなければギーターの本質には至れないというようなことが記述されていたと思う。

今から3,000年前から2,000年ほど前に書かれて編纂されてきたヨガの聖典の一冊である『ウパニシャッド』などを読んでいると時代的感覚や社会的感覚などの時代背景が異なる…この書を記して編纂し続けてきた人々が宮沢賢治のような鋭く豊かな詩的感覚を持ち合わせているかのようであるため、あまりにも感覚的な差異を感じてしまうので読むのに苦労する。

バガヴァット・ギーターもそれと同じで、書かれた時代の人々のバックグラウンドを想像することをしなくては深い理解には至らないと確かシュタイナーの本には書かれていた。

この想像するという思考も『いかにして超感覚的世界〜』に書かれている態度で研鑽を続けて純化していけば、

シュタイナーが述べているように、”純粋な思考そのものが、それ自体がすでに超感覚的な活動となる”までに至るのだろう。

そのためには、真理と認識への畏敬の念と忍耐と勇気と大胆さがキーワードとなる。

なんだか、アンパンマンみたいなテーマだなと思う今日この頃です。

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