アシュタンガヨガは強烈な自己と向き合わせる修行でもある。
様々な自分が出てくる。知らなかった見たくもない自分の一面とも向かい合わさせてくれるし、意外な、思いもよらない自分にも出会わせてくれる。
だからこそ、哲学が欠かせない。
身体的な実践で浮かび上がる「我」を、哲学的理解によって静める。
いや、静めるというよりは「鎮める」であり、そして「鎮める」というよりも、炎の如く燃える「我」の扱い方に気付いていくと表現した方が適切かもしれない。
哲学的理解とは「私がする理解」…私に止まるための理解ではなく、「私を超えた理解」を求めることだ。
すると練習は「自分を誇示する場」から「自分を超える場」へと変わっていく。
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アシュタンガヨガは決められた順序に従い、ほぼ毎日繰り返し練習することを前提とする。
日頃運動から離れた生活をしている人にとっては強度も高く、身体的にも精神的にも挑戦が大きい。
そのため、自然と「できる」「できない」という意識が浮かびやすく、ポーズが深まるほど「自分はここまでできた」という達成感が強調されやすくはなるにはなる。
その結果として、他者との比較や自己評価に基づいた「我(エゴ)」がむしろ肥大化してしまいやすくもなる。
そのため、ここで重要になるのがヨガ哲学を学ぶことと、師を持つことだ。
今回はヨガ哲学について書いていきたい。
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例えば、ヨガスートラの2章には「アヴィディヤ(無知)」と「アスミタ(自我意識)」という言葉が出てくる。
「アヴィディヤ(無知)」は2章3節に、
「アヴィディヤ(無知)、アスミタ(我執)、ラーガ(愛着)、ドゥヴェーシャ(嫌悪)、アビニヴェーシャ(死への執着)―これらが五つのクレーシャ(煩悩)である」
と説かれているのがはじめての言及である。
そして、2章5節には、
「アヴィディヤとは、永遠でないものを永遠とし、不浄を浄とし、苦を楽とし、非我を我と見ることである」
と「アヴィディヤ」が根本的な無知として定義され、その誤認から他の煩悩が派生すると説明されている。
ヨガスートラ2章6節には、
「アスミタとは、純粋な観照者(プルシャ)と心の働き(ブッディ)とを混同して、『私が見る』とすることである」
と「アスミタ」についての説明がなされる。
「アスミタ」はサンキャ哲学の「アハンカーラ」と同じ意味を持つ言葉だ。
ここで自我意識(アスミタ)が「真の自己(プルシャ)」と「心作用(ブッディ)」を誤って同一視することだと明確に示されている。
この2章にある3つの節では、私たちが「できる」「できない」と思ってしまったり、「私はすごい」もしくは「私はダメだ」と思ってしまったりする思考やマインドに囚われるのは、自己を誤って同一化するためだと説いている。
ヨガ哲学を学ぶことで、身体的な成果や技術がヨガの本質ではなく「我を超えてつながりへ向かう道の過程」にすぎないということを理解することができる。


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