むり、できない、やりたくない①

ヨガ

何かを修得するために、特に人から学ぶ場合、なるべく口にしない方がいい言葉がある。

「むり」、「できない」、「やりたくない」、「わからない」、「やってるつもり」

などなど。

これらの言葉を口にしたくなる気持ちはわかる。

アシュタンガヨガのカポタアーサナをする前は毎回そのようには思う。

アシュタンガヨガを教えてる立場の目線で言えば、これらの言葉を口にする人はやる気がないのかなと思ってしまうときもある。言葉というよりは態度からそのような印象を持ってしまうのだろう。そう感じてしまった目の前にいる人のその態度から真剣さを感じとることは難しい。という話は僕だけに限らず、ジャンル関係無しに教えている立場の人からはよく聞く。とくに、道がつく系のことを教えてる先生からだ。

人は自分の理解、想像、経験を超えたことを目の当たりにしたり、体験したときにそのようなことを言いたくなるのかなと自分自身がそれらの言葉を口にしてしまった時のことを振り返ってみるとそのように思う。自分の範疇を超えた出来事に対峙できない時ということになる。

でも、それが実際に出来なかったり、自分の範疇を超えた出来事にしてしまうのは、脳のシナプスが繋がってないから神経ネットワークの循環が起きてないためであり、実体験の量と脳の可塑性の問題でもある。

この問題を解決するには、取り組む側がわかるなりできるなりするまで、シナプスが繋がるまでやるしかない。

同時に教える側の相手のことを感じとれる柔和さと、何よりも忍耐強さが必要だが…つまりは人間関係としての繋がりも必要不可欠な要素だ。

教える側と教わる側の人間関係の繋がりがあることが前提として(このテーマでさらに思考展開をする必要があるがそれはまた今度にしよう。もしかしたら目の前の人のシナプスが繋がるというのは、それを目の当たりにしている僕の神経ネットワークにもシナプスの結合や何らかの変化をもたらしているのかもとふと思う。目の前の他者が変化することを感じとったことで、目の前の他者の変化を感じとれるようになった私の変化ということが起こるのではないか)、

…上記の思考をまとめるのはまた今度ということにして…

シナプスがある程度繋がって神経ネットワークが開いてないとわかるわけがないのだから、シナプスが繋がりニューロンが繋がり発火するまでは訳も意味もわからないが、感覚でよくわからない。けれども、ただ、やればいいだけ。

量を重ねることでしかシナプスは繋がらない。

やるかやらないか。

単純に量を積み重ねことができるか否か。

それはシンプル過ぎて難しいことだとは思う。

続く

コメント

タイトルとURLをコピーしました