椿の海の記 石牟礼道子

読書

文章を書くことは私的には得意なような気もするけれど、やりたくないことではある。

言葉にしてしまうとその言葉に執着してしまいそうだからかもしれない。言葉は現象や実際を表す記号に過ぎないわけですし。

けれでも、自分の中の漠然としたマインドや思考を整理するということはアシュタンガヨガやヨガ哲学でいう集中…ダーラナやディヤーナ、もしくはサマーディに通ずるものがあるはずなのではじめてみようと思う。アシュタンガヨガは肉体よりもメンタルの修練の部分が濃いことは間違いない。

まずは、自分にとって言葉というものを定義した方がいいのかもしれない。以前インスタグラムに投稿した石牟礼道子さんの『椿の海の記』の感想文で「言葉とは何か?」ということで綴った文章を振り返ってみようかと思う。

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言葉とは何か?それは気持ちを伝えるもの。
話すとは何か?それは気持ちを伝えること。
会話をするとは何か?それは気持ちを交換すること。
もしくは気持ちをぶつけること…目の前の相手と言葉を超えて向かい合うこと。

ただ気持ちとはわけのわからないもので自分自身で掘り下げていかなければわからない。いやいや。掘り下げる必要なんてないですよ。という人もいるだろう。そういう人はそれでいいのだと思う。

気持ちを掘り下げる。

それは自分の言葉によって。
または目の前の人から生まれる言葉によって。
もしくは言葉を媒介しないインスピレーション…直接感じる…直感によって目の前の人そのものから、目の前にある物そのものから。
または目の前に広がる光景そのものから。
隣に座る人のぬくもりと存在から。
人の成功や失敗から。

別に目の前の事物からでなくてもいい。
どうしても目を合わせることができない振り返ることが出来ないその人の存在そのものから。
もう会うことができない人との記憶の断片から。
遠い昔に訪れたことがある場所のいまこの瞬間に流れている空気を想像してみることからでもいい。
過去の後悔からでもいい。
未来への可能性からだっていい。

自分の感覚からであってもいい。
身体を伸ばした時に感じる心地よさ。
もしくは真逆の緊張感ある状況で起こる筋肉が固まっていく感覚。鳩尾が固まり呼吸が出来なくなる感覚。
気心知れた仲間と時間を過ごしているときの酒が身体に染み渡る心地よさから、または真逆のシチュエーション…

石牟礼道子さんは『苦海浄土』のあとがきにこう書いている。
「白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である」
言葉とはそういうものであり続けなればならない。
そういう言葉の中にでしか気持ちという質量は生まれない。そこに終わりのない否定と問いかけがなければ。

気持ちの…想いの原風景がある。それは言葉を超えた場所にある。
言葉が生まれる以前の場所。言葉が生まれてくる場所。
気持ちを深く深く掘り下げていかなければ辿りつけない場所。
僅かだけ、人のそれに触れることができる1冊。

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続く。

藤枝寿紀 | アシュタンガヨガ湘南 | ヨガインストラクター
ヨガインストラクター藤枝寿紀のウェブサイト。湘南地区の藤沢、鎌倉、茅ヶ崎で本格的なアシュタンガヨガとコンディショニングを指導してます。

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