書くということは…言葉にすることとは何か?
その問いは、いわゆる表現とは何かという問い掛けにもなる。
表現とはサティヤ(正直)に近づいていくことなのだろう。
サティヤとは、「あなたの言葉に実在はありますか?」、もしくは「あなたは自分自身に丁寧に向かい合っていますか?」と問うことなのだから、
表現とは実在に近付いていくことになる。
サティヤの次の禁戒(ヤマ)にasteya(不盗)がある。
他人の物を盗んではいけない、言葉もアイデアも盗んではいけないという意味だ。
けれど、人は他人の動きや思考を模倣し反復することで学んでいくことができる。
個人的には「盗んで学べ」の精神の職種、職場で働いてきたことが多いので、盗んではいけないという戒律には違和感を感じてしまう。
身体操作に関しては、他者の動きをそのまま真似ることができる観察能力が高い人の方が圧倒的に上達が早い。
脳の前頭葉にミラーニューロンという組織がある。見たままのことをそのまま真似るための組織だ。乳児期や幼児期に最も活発に働いているらしく、成人になってからでも活発に動いている人は真似る能力が高い。
身体操作の学習に言葉が介入すると、見たものをそのまま真似るという行為の邪魔になる。
大人になって真似る能力が低下するのは、学習する際に言葉による概念的に捉えようとしてしまう思考、物事をカテゴライズする能力や分析する癖が強くなってしまいミラーニューロンの働きを阻害してしまうためのようだ。
言葉や概念の介入なしに見たままに真似る。
模倣とはこの真似る能力のことを言うのであって、学習には必要な能力だ。
では、盗みと模倣はどう違うのか?
盗みを伴わない模倣であれば、それはasteyaにならないだろう。
おそらく、それは徹底的に模倣する。ということなのではないだろうか?
中途半端な模倣というのは、対象の表現を部分的に抜き出しているだけで全体性に欠ける。
そのような模倣を盗みと言っていいのではないか?
徹底的に模倣する。
それは実在に近づいていくということと同じではないだろうか?
模倣したい対象の実在に近づいていくこと。
丁寧に、畏敬の念と共に対象の実在に近付いていくこと。
satyaが「あなたの言葉に実在はありますか?」と問い掛ける戒律なら、
asteyaの不盗の意味することは「あなたは、あなたが学びたい対象の実在に丁寧に、全力で、しっかりと向かい合えていますか?」と問い掛ける戒律ではないだろうか。
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