教えない教え

ヨガ

インド・マイソール総本山でアシュタンガヨガを「教えてもらう」ことは実際にはほとんどない。

なぜか?

「言葉で理解しても意味がないから。」

からだろうと勝手に思っている。

実際に、アシュタンガヨガの実践を継続していると、あまり言葉による理解は役には立たないと思うことは多々ある。

言葉で理解しようとする強い意志にはエゴが忍び込みやすく、それが「今ここでの感じる力」を覆い隠し、弱くする。

感じる力は、何かをコントロールすることや分析、解析することから離れてこそ動き出す…能動的受身、もしくは禅で言う「為さずして為す」というような能動と受容の境界線が消えたところにあるのだろう。

そもそも、言葉による情報伝達と身体操作の習得とでは、脳内で関与する神経系の回路が本質的に異なる。

理解しようとすることは、感じようとする脳の回路を遮断してしまう。

心理的にも、「理解しよう」とか「知的に優れていたい」などと思えば思うほど、主観的な自己意識が…エゴが前面に出てきてしまい、身体の世界…感覚の世界の扉を抑制して閉ざしてしまう。

(日野晃先生のところへ行くと嫌というほど体験できるし、そんな自分を見つめさせてもらえる笑)

結果的に、身体が今どう感じているかというような身体の声を聴くことができなくなる。

アシュタンガヨガにしろ…その他の身体操作を伴うありとあらゆる事は、真剣に取り組めば取り組むほど、単なる知識の蓄積と情報の羅列を構築するのではなく、身体の中に「知」が根付く過程を絶対的に重要視せざるを得ない。

「身体の中に根付いた知」…直接的な経験を経て成されたそれのみが、禅の教えを西洋諸国に広めた鈴木大拙が「般若」と呼ぶものであり、「智慧」と呼んでいいものだろう。

それを積み重ねることでしか気が付くことはできない。

知識を集めても、本を読んでも、考えを巡らせても、それだけでは本当の理解…本当の経験…本当の何かには辿り着くことはできない。

ヨガっぽく言えば、アートマン(真我)は、思考の静まった沈黙の中に現れるもの。

じゃないですかね。

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