「頭ではわかっているのに身体ではできない」
そんな言葉を耳にすることは少なくない。
僕もこれまで経験のないことを目の当たりにし、それに取り組んだり、挑戦しなければならない状況に立たされると、同じように感じてしまうことがある。
けれども、それは「わかったつもり」という感覚の1つであり、実は何もわかっていない幻想の中にいると言える。
ヨガ哲学の観点からすると、「頭でわかっている」とは多くの場合は「自分の理解の枠組みの中で納得しただけ」ということになる。
つまり、それはまだ体験を伴っていない幻想であるマヤの段階に留まっているだけに過ぎない。
『ヨガ・スートラ』では「アヴィディヤ(無知)」を「非永遠を永遠と思い、非自己を自己と思うこと」と定義している。
この視点から見れば、「わかったつもり」とはアヴィディヤの一形態に他ならない。体験の根ざさない理解はどれほどもっともらしく見えても、真実の智には至らないということになる。
ヨガ哲学が語る「ジュニャーナ(智)」とは、頭で説明できる知識ではなく身体と心を通じて実現されるもの。
たとえば、呼吸を深める方法をどれほど理解したとしても、実際に息が深まらなければ、それはまだ知っているとは言えない。
理解と体験とがひとつに重なったとき、はじめて「本当にわかった」と言えるのだろう。


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