”あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。または無為に執着してはならぬ”

ヨガ

”あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。または無為に執着してはならぬ”

『バガヴァッド•ギーター』2章47節のこの言葉はギーターの中で最も有名な一節だと思う。

ポーズができるようになることに憧れて、それを目的としてアシュタンガヨガの実践をはじめる人はそれなりにいるだろう。しかし、実際にはほとんどの人にとってアシュタンガヨガの実践でポーズがある程度とれるようになるまでは時間がかかる。

仮に目的のポーズがとれるようになったとしても身体がポーズに耐えられる強さが身につき安定するまでにはさらに時間が必要となる。強さが身についてなく安定しないうちは身体を痛めてしまい、そのポーズがまた「できない」という状態になることは頻繁に起こる。

アシュタンガヨガはポーズができるようになることより、実践そのものを安定して継続できるということの方が大切であってポーズはそのための手段でしかない。

安定して継続できる実践を目指し、そして積み重ねることによって心身…特に精神面に大きな安定をもたらしてくれる。アシュタンガヨガは紛れもなくメンタルトレーニングだ。

「できる」「できない」の二元的な思考はギーターの言葉に当てはめると「行為の結果を動機」としてしまう考え方だ。

個人的には、アシュタンガヨガの実践の時間は自分自身を感じる時間であり、自己との対話だと思っている。その時間を「できる」「できない」の結果だけで終わらせてしまうのは勿体無い。もっと大切なことがあるのではないか。

しなやかな肉体と力強いアーサナ…それらを支えるのは柔軟な思考と強靭な精神だ。

柔軟な思考と強靭な精神を築いていくことはヨガ自体が持つ本来の目的に近いはずだ。それらが欠いたアシュタンガヨガは面白みのない実践にしかならないし、単なる運動やエクササイズに過ぎないものになる。

1つの大きな「できる」には多くの小さな「できる」と「できない」の積み重ねが含まれている。

行為の結果に執着してしまうと、本来無数に存在するはずの小さな「できる」を感じとることができなくなる。

結果にだけ執着してしまうと、自分が実際に何をしているのかわからなくなる。そうなると特定のポーズができるようになりたいと望んでいた人でさえ、その目的から逸脱してしまう。

特定のポーズをとれるようになりたいという目的を達成するためにも適切なプロセスというのは間違いなくある。

結果に至るまでの適切なプロセスを踏んでいるかということを対話することも精神の修練となり、そのためには「できない」なりの「できる」に気付いて蓄積していくことが大切ではないだろうか。

「行為そのもの」とは小さな「できる」に気付いていく過程そのものである。「無為に執着」している限りは、つまりは「やらない」のであれば「行為そのもの」とは何も関係はなくなる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました