偉大なるロシアの文豪ドストエフスキーの小説を読むと2作品のうち1作品には「あー!恐ろしきものだ…習慣という怪物は!!」というような表現が出てくる…気がする。
ヨガで言えば、習慣とは輪廻だ。輪廻なんて小難しい言い方をしないで、別な言い方をすれば輪廻とは癖だ。
サンスクリット語で輪廻は”サンサーラ”と呼ばれる。似た言葉では”サムスカーラ”があり、行・印象といった意味を持つ。今の行いが潜在印象として蓄積されていくことで、自分の過去生(カルマ)に加わり、後の自分の行(サムスカーラ)に影響をもたらす。
ダンシング・ジヴァ…ナタラージャが背に背負っている輪は輪廻のことを暗喩している。その輪の周りにある炎が知識と知恵を示している。知識と知恵の炎によって輪廻の輪を燃やし、輪廻から解放され解脱するとされる。
ナタラージャを見ていると「あなた、同じ失敗ばかりしてますよね?いい加減気がついて下さいね」と説教されてる気分になってくる。悪い気分ではないが。
自分に気がつく。これは本当に難しい。
インドの偉大なる哲学者シャンカラ著の『ウパデーシャ・サハースリー』の岩波文庫版の表紙にも書かれている言葉がある。
”「生と死というワニが出没する輪廻の大海」から脱する道はただ一つ,我が内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるという真理を悟ることにある”
シャンカラは「アートマンとは何か?」という問い掛けを探求するために聖典『ブラフマン・スートラ』を研究してきた学者だ。仏教思想にも強く影響されたシャンカラ自身の思想を記したのが『ウパデーシャ・サハースリー』だとされている。
そして、本の前半に「否定」の章がある。その中の一節に、
「アートマンは否定できないものであるから、天啓聖典は、「そうではない。そうではない」といって、アートマンを否定しないで残したのである。人は「私はこれではない。私はこれではない」というような仕方で、アートマンに到達する」
と書かれている。
本当の私は否定できないもの。否定できてしまうものは本当の私ではない。それなのにも関わらず私は否定できてしまう私を本当の私と見なし、執着し、同一化してしまう。
ということで、また右お尻を痛めました。再発です。
でも、今のところ前ほど酷くはないが、腸骨筋と腰方形筋辺りが曲者な気がする。少しは感覚が磨かれてきたのかなと思う。
私は癖の奴隷です。
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