『プラダを着た悪魔』でメリル・ストリープが演じるファッション雑誌「ランウェイ」のカリスマ編集長ミランダはファッション業界の「恐ろしく厳しい権威」の象徴として描かれていた。
しかし、20年経った『プラダを着た悪魔2』では、時代は変わり、社会は効率とコンプライアンスを求める。
『プラダを着た悪魔』で見せた彼女の過剰な情熱や厳しさ、狂気的なまでの美意識は、時に「時代遅れ」として扱われる。
そんな空気の中で彼女は変化を受け入れざるをえない現実と向き合いながらも、
それでもなお、そのジレンマの中で佇みながら最後まで何かを守り抜こうと足掻き続けている人のように見える。
昔は効率が悪いものにも「濃度」があったはずだ。
時間がかかる編集。
面倒な校正。
無駄とも言える美意識。
身体で覚える文化。
呼吸を合わせる空間。
でも、今はコスパ・タイパ・即効性・アルゴリズム最適化などによって、「濃度より回転率」が優先されてしまう。
文化は「価値」ではなく「消費可能性」で評価されるようになる。
ミランダが守ろうとしていたのは単なる雑誌ではなく…
「時間をかけて磨かれるものには価値がある」
という思想だったのではないだろうか。
だから、彼女は古いのではなく、むしろ「抗っている存在」であり、その信念を貫くために「今を一生懸命に生きて抜こうとしている人」だ。
世界全体が「浅く、速く、軽く」流れていく中で、伝統と、その深度を守ろうとしている。
これはアシュタンガヨガともかなり重なる気がする。
たとえば現代は、
- すぐ効果が出る
- 気持ちいい
- 短時間
- 分かりやすい
- 怪我しない保証
- 効率化されたメソッド
こういうものが求められる。
でも、本当に身体や意識が変わる実践はむしろ真逆だ。
- 面倒
- 時間がかかる
- 反復
- 理解不能な期間が長い
- 地味
- すぐ結果が出ない
- しかし、濃度が高い
そこには「魂の密度」みたいなものが生まれてくる。
だから、今の時代に「伝統」が苦しいのは当然だ。
伝統とは「非効率の蓄積」でもあるから…
けれど、本物の伝統とはただ古いだけではなく、
「何を削ってはいけないか」
ということを知っている。
ミランダは多分その「削ってはいけない核」を守ろうとしていた。
でも、社会はその核ごと「ノイズ」として削除しようとする。
そこに悲しさがある。
ただ同時に、面白いのはこういう時代になるほど逆に「濃度に飢える人」も増える。
それが、まさにアン・ハサウェイ演じるアンディであり、スタンリー・トゥッチ演じるナイジェルだ。
彼女たちは「濃度」に飢えている側の人間として描かれている。
『プラダを着た悪魔』で、はじめの頃のアンディは完全に「外側の人」だった。
ファッションなんて興味ない。
効率的にキャリアを積みたい。
ある意味、合理的で現代的な女性だ。
でも、雑誌ランウェイの世界に入ってしまうことで、単なるブランドや服ではなく、
- 途方もない執念
- 異常な観察力
- 美への偏執
- 細部への狂気
- 「どうでもいい」ことのように見えるものへの膨大な情熱
に触れてしまう。
つまり、彼女は「意味があるかどうか分からないほど過剰な熱量」に感染していってしまう。
現代人は頭では効率を求めていても心や身体は「過剰なもの」に飢えてる部分がある。
ライブ、祭り、宗教、スポーツ応援、推し活、マイソールの空気感もそうだ。
「そこまでやるの?」という熱量を見ると、人は何かを感じてしまう。
ナイジェルはさらに象徴的な存在だ。
彼は単なる業界人ではなく「美の信仰者」に近い。
彼にとってファッションは商品ではなく、人生そのものだ。
だから、合理性だけでは生きられない。
今の社会は、何でも説明可能で、数値化可能で、再現性があるものを求める。
でも人間を本当に動かすのは、説明しきれない偏愛や執着だったりする。
効率社会は「なぜそんなにやるの?」を常に問う。
でも、文化や芸術や修行の核心は本来、
「理由なんて超えて、やってしまえ」
というところにあると思う。
アシュタンガヨガもかなり同じである。
毎朝同じことを繰り返す。
一見すると非効率だか、その反復の中でしか生まれない「濃度」がある。
アンディもナイジェルも結局はその濃度に魅せられていた。
そして、ミランダはその濃度を最後まで守ろうとしていた。
だから、『プラダを着た悪魔』は1も2も…単なるファッション映画ではなく…
「効率化されていく世界の中で、人間の情熱はどこまで生き残れるのか」
ということを問い掛けてくる作品だ。


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