「ヨガはポーズではない。
内観(もしくは哲学)が大切だ」
この言葉自体は間違ってはいない。
むしろ本質に近い表現だと思う。
しかし、この言葉がアーサナから…ポーズから逃げるための言葉として、歪められて使われてしまっているように思えてしまうときがある。
ポーズがうまくいかない。
思うように身体が変わらない。
そのときに、
「ヨガはポーズではないから」
と言ってしまう。
一見すると本質を語っているようで、
実際には、身体と向き合うことから離れているだけになってしまっている。
内観(あと哲学も)は「逃げ場」ではない。
ここで大きな誤解をしているように思う。
内観(もちろん哲学も)とは、現実から離れることではなく、現実を誤魔化さずに観るということ。
つまり、
動かない身体…
力が入らない状態…
続かない自分…
思うように変わらない現実…
これらをそのまま引き受けて、向き合うこと。
忍耐と努力を抜いた内観は成立しない。
忍耐と努力が伴わない内観は、ただの言葉に過ぎない。
なぜなら、負荷がなければ変化は起きず、
変化がなければ観察は深まることはない。
ヨガの中で起こる気づきの多くは、
呼吸が乱れたとき…
余裕がなくなったとき…
思考が逃げようとしたとき…
こうした“きつさ”の中で初めて現れてくる。
楽なところでは何も起きない。
人は余裕があるとき、
いくらでも自分を良く見せることができる。
丁寧にやっているつもり…
感じているつもり…
観ているつもり…
しかし、負荷が…ストレスがかかった時にしか現れない自分の一面というものがある。
それを本性と呼んでもいいのかもしれない。
ここで初めて、
呼吸を止める癖…
力む自分…
誤魔化し…
逃げる思考…
といったものが露わになる。
ヨガのアーサナは本来、
- 身体に向き合う(ポーズ)
- 呼吸が変化する
- その中で観る
- 自分の癖に気づく
- 1〜4の繰り返し
という流れだと思う。
しかし、
忍耐と努力が伴わない内観では、
形だけを追い、感覚が伴わない。
もしくは、
内観を語り、身体が伴わない。
といったことしか起こらない。
必要なのは逃げないこと。
たまには逃げていいと思う。
息抜きは必要だ。
強すぎる緊張はよろしくない。
けれど、結局のところ必要なのは負荷やストレスから極力逃げないことだ。
できない自分から逃げない
きつさから逃げない
曖昧さから逃げない
その中で、呼吸と感覚を手がかりに観続ける。
「ヨガはポーズではない」という言葉は、ポーズを軽視するためのものではない。
むしろ逆で、
ポーズから逃げずに向き合った先に、はじめてその言葉は意味を持ち始める。
内観も同じだ。
現実から逃げるための内観ではなく、現実を引き受けるための内観。
この態度で向き合うことで、
ヨガのアーサナは単なる運動ではなくなる。


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