言葉や概念への執着と痛みへの執着は似ている。
執着とは全体から離れて部分的に対象を捉えてしまうことだ。
物事は全ては相対的であり、連関して成り立っている。バランスだ。
執着しているとはバランスが崩れている状態と言えるだろう。
しかし、問題や状況によっては、時にはバランスが崩れることで何かが前に進むということもある。
バランスをとることは必要なことだが、時にはバランスをとろうとするあまり、”バランスをとるということへの執着”をしてしまうのではないだろうか。
その状態は安定しているように見えて、実は安定とはなんら関わりのない状態ということだ。
停滞しているとも言えるだろう。
そう考えると、執着することで起きてしまうバランスが崩れるということも必要なことになる。
不必要なことなど何もない。ということではないか?
アシュタンガヨガの実践において執着は必要だと個人的には思う。ただし、謙虚さや素直さを伴う執着だ。
ある程度commitmentしていかなければ肉体的にも精神的にも変化は生まれない。
しかし、し過ぎのcommitmentはattachmentになってしまう。
その時、私たちはアシュタンガヨガののニヤマにあるsantosha(サントーシャ、知足)と向き合う良い機会になるのだろう。
santoshaから我々は全体とのバランスを感じ、考え、そしてmoderationというものを考え、実践して身につけていく。
けれども、moderationにattachmentし過ぎれば、それも停滞と呼んでいいのではないか。
それはmoderationと呼ぶには適さない状態となっていると言えるだろう。
moderationとバランスをとることは似ている性質がある。
全ては連関していて流動しているということだ。
流動していることを感じ、観察し、委ね、時には抗うことがバランスをとるということなのかもしれない。
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